月80時間の時間外労働に対する基本給組込型の固定残業代が有効と判断された裁判例
1 事案の概要
原告は,平成26年1月6日,アクセサリーや貴金属製品等の企画・製造・販売等を営む被告と雇用契約を締結し,平成27年5月31日に退職した。原告は,基本給に組み込まれていた月80時間の時間外労働に対する固定残業代が無効である等と主張し,被告に対し,時間外労働及び深夜労働に係る割増賃金並びにこれに対する遅延損害金,付加金の支払いを求めた。
2 イクヌーザ事件判例のポイント
2.1 結論
月80時間の時間外労働に対する基本給組込型の固定残業代が有効と判断した。
2.2 理由
1 明確区分性
(固定残業代の定めが有効とされるための基準を独自に判示せず)①被告は本件雇用契約における基本給に80時間分の固定残業代(8万8000円ないし9万9400円)が含まれることについて、雇用契約書ないし年俸通知書で明示している上、②給与明細においても、時間外労働時間を明記し、③80時間を超える時間外労働については、時間外割増賃金を支払っているとして、基本給のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と時間外労働の割増賃金の部分とを明確に区別することができると判断した。
2 公序良俗違反
被告は基本給に組み込まれる時間外労働時間数として1カ月80時間分を主張するところ、平成21年5月29日厚生労働省告示316号による改正後の平成10年12月28日労働省告示154号「労働基準法第36条第1項の協定で定める労働時間の延長の限度等に関する基準」(以下「本件告示」)3条本文が定める限度時間(1カ月45時間)を大幅に超えるとともに、いわゆる過労死ラインとされる時間外労働時間数(1カ月80時間)に匹敵するものであるから、この固定残業代の定めは公序良俗に反し無効であると主張した。これに対し,裁判所は、1カ月80時間の時間外労働が上記限度時間を大幅に超えるものであり、労働者の健康上の問題があるとしても、固定残業代の対象となる時間外労働の定めと実際の時間外労働時間数は常に一致するものではなく、固定残業代における時間外労働時間数の定めが1カ月80時間であることから直ちに当該固定残業代の定めが公序良俗に反すると解することはできないと判断した。
3 イクヌーザ事件の関連情報
3.1判決情報
- 裁判官:知野 明
- 掲載誌:労働経済判例速報2335号19頁
3.2 関連裁判例
- 高知県観光事件(最高裁二小判平6.6.13 労判653号12頁)
- テックジャパン事件(最高裁一昌判平24.3.8 労判1060号5頁)
- 国際自動車事件(最高裁三小判平29.2.28 労判1152号5頁)
- 医療法人被告事件(最高裁二小判平29.7.7 労判1168号49頁)
- ザ・ウインザー・ホテルズインターナショナル事件(札幌高判平24.10.19 労判1064号37頁)
- 穂波事件(岐阜地判平27.10.22 労判1127号29頁)
3.3 参考記事
主文
1 本件控訴に基づき,原判決を次のとおり変更する。
⑴ 被控訴人は,控訴人に対し,204万7483円並びに別表の「内金」欄記載の各金員に対する,同「年6%の遅延損害金算出の始期」欄記載の各日から同「年6%の遅延損害金算出の終期」欄記載の各日まで年6パーセントの割合による各金員及び同「年14.6%の遅延損害金算出の始期」欄記載の各日から各支払済みまで年14.6パーセントの割合による各金員を支払え。
⑵ 被控訴人は,控訴人に対し,102万3741円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
⑶ 控訴人のその余の請求を棄却する。
2 本件附帯控訴を棄却する。
3 訴訟費用は,第1,2審を通じて被控訴人の負担とする。
4 この判決は第1項⑴に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴の趣旨
⑴ 主文第1項⑴と同旨
⑵ 被控訴人は,控訴人に対し,204万7483円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
2 附帯控訴の趣旨
⑴ 原判決中,被控訴人敗訴部分を取り消す。
⑵ 上記部分につき,控訴人の請求を棄却する。
第2 事案の概要
(以下において略称を用いるときは,別途定めるほか,原判決に同じ。)
1 本件事案の概要
原判決「事実及び理由」第2の柱書に記載のとおりであるから,これを引用する。ただし,原判決2頁12行目末尾に行を改めて以下のとおり加える。
「原審が控訴人の請求を一部認容するにとどめたところ,控訴人が原判決中の敗訴部分を不服として控訴し,また,被控訴人が敗訴部分を不服として附帯控訴した。なお,控訴人は,当審において,未払時間外,深夜割増賃金及びこれに対する遅延損害金の請求につき,主文第1項⑴のとおりに請求を減縮した。」
2「争いのない事実」,「争点」及び「争点に対する当事者の主張」
以下のとおり補正するほかは,原判決「事実及び理由」第2の1ないし3に記載のとおりであるから,これを引用する。
⑴ 3頁13行目冒頭から15行目から16行目の「からして」までを以下のとおり改める。
「控訴人のタイムカードから算出される時間外労働時間は原判決別紙2の「時間外」欄,深夜労働時間は同「深夜」欄に記載のとおりであり,これらの各支払期毎の合計は,同「タイムカードベース」欄内の「時間外合計」及び「深夜合計」欄各記載のとおりである。そしてこのようにして算出される時間外労働及び深夜労働の各時間数と,控訴人の給与明細に記載された時間外労働及び深夜労働の各時間数(同「給与明細ベース」欄内の「時間外合計」及び「深夜合計」欄各記載のとおり)とが,概ね一致していることから,控訴人は」
⑵ 6頁11行目から12行目の「労働基準法」から同13行目の「定める告示」までを「労働基準法第36条第1項の協定で定める労働時間の延長の限度等に関する基準」と改める。
⑶ 8頁22行目から23行目及び9頁6行目の各「(ただし,請求額は205万0194円)」をいずれも削る。
3 当審における当事者の補足的主張等
⑴ 控訴人
ア 時間外,深夜労働の有無及びその時間数について
控訴人は,少なくとも給与明細に記載された労働時間すなわち原判決別紙2の「給与明細ベース」欄内の「時間外合計」欄記載の時間外労働及び「深夜合計」欄記載の深夜労働を行った。
被控訴人は,給与明細に記載された労働時間の基礎とされたタイムカードに手書き部分があることを問題視するが,控訴人は,当時,ルイーズの業務を命じられることも多く,同社のオフィスにおいて始業及び終業した場合にはタイムカードにその時刻は打刻されないし,その他に出先に直行・直帰することも多くあったから,手書き部分が生じることは当然である。そうであるからこそ被控訴人は,手書き部分の内容も前提に,控訴人に対する給与を支払っていたのである。
イ 固定残業代の定めの有無について
被控訴人は,固定残業代に関する記載がされた,本件雇用契約書の写しであるとする書面(乙2)を提出するが,社会通念上,雇用契約書の原本は,使用者側で保有することが通常であり,労務管理上も,使用者側には,後に疑義が生じない取扱いが求められること等から,安易にその元となった雇用契約書の成立の真正を認定すべきではない。また,被控訴人が本件年俸通知書の写しであるとして提出する書面(乙5)に至っては,受領者側の日付の記載や記名押印を前提とした体裁であるのに,これらの記入がされていないものであり,被控訴人においていつでも作成しプリントアウトできる体裁のものにすぎない。
したがって,これらの書面や被控訴人側の供述だけを根拠に,被控訴人から控訴人に対する固定残業代の額や時間数の提示があったものと認定することは不当である。
ウ 固定残業代の定めの効力について
本件雇用契約において,仮に,被控訴人主張のような月間80時間分相当の固定残業代の定めがあるとしても,このような定めは,時間外労働を抑制するという割増賃金の機能を喪失させ,労働基準法その他の法令が労働時間を規制している趣旨に反し,これを没却するものである。
被控訴人主張の固定残業代は,被控訴人提出の賃金規程において,所定労働時間を超えて勤務する見込み時間に対する賃金であるとされていることからすれば,恒常的に月間80時間前後の残業をさせることを前提としたものであるし,実際にも,控訴人の残業時間は,本件請求の対象期間についてみると,平均して1か月72時間超である上,80時間超が5か月(うち100時間超が2か月)であって,いわゆる過労死ライン(労働者の発症した脳・心臓疾患に係る労災認定基準(厚生労働省平成13年12月12日付け基発第1063号(平成22年5月7日付け基発0507第3号にて改正)参照)を超えている(特に平成26年は,ほぼすべての期間において過労死ラインを超えていた。)。このような80時間もの時間設定をした固定残業代が有効とされる場合には,過労死ラインを超える過剰な残業が世の中において助長されることとなる。
また,被控訴人は,控訴人に対する総支給額(当初賃金である23万円)を前提に,最低賃金をぎりぎり上回る範囲で,固定残業代の対応時間数をできる限り長時間とすることを企図して,80時間との時間数を算出・設定しているものである。
したがって,上記の定めは,法令及び使用者の安全配慮義務に反する残業を実施させることを前提とし,あるいは許容して,設定・実行されていたものであって,公序良俗に反し無効である。
また,このような定めにつき,訴訟において一部の時間(例えば45時間など)の範囲で部分的に有効と認められるのであれば,経済合理性を追求する企業においては,全ての従業員が訴訟提起をすることまでは考えにくいことを踏まえ,過大な時間数の固定残業代の定めをした上でそれを上回る場合にのみ残業手当を支払っておくとの取扱いが横行することになり,過剰な長時間労働を助長することとなる。したがって,上記のような定めは全部無効とされるべきである。
エ 付加金支払の要否及びその額について
長時間労働を抑制する割増賃金の機能を喪失させるための制度設計とその運用を意図的に行っていたのであるから,被控訴人には,控訴人の請求どおりの付加金の支払を命ずるべきである。
⑵ 被控訴人
ア 時間外,深夜労働の有無及びその時間数について
控訴人のタイムカードの記載は,手書きが極めて多いこと,切りのよい時間しか記載されていないこと,被控訴人事務所のセキュリティ管理上の入退館情報と矛盾すること,控訴人が勤務中に被控訴人に対する背任行為を行ったり,業務とは全く無関係の行為を長時間するなどしていたこと,本件訴訟において,本件雇用契約書及び本件年俸通知書の受領や被控訴人から受けた説明につき虚偽の供述をしていること等の点から,到底信用性があるものとはいえない。
被控訴人は,何度注意しても控訴人がタイムカードの手書きをやめなかったものの,給与の性質上,やむを得ずこれに基づく割増賃金や深夜残業代の支払をしていたものである。控訴人は,出退勤時間をタイムカードに打刻し,直行直帰の場合は被控訴人代表者の承認を受けることとなっていたにもかかわらず,その規則を守らず,手書きを続けていたのであるから,これによる不利益を負担すべきであり,タイムカードに手書きで記載された箇所については,本件雇用契約において合意された出退勤時刻をもって勤務時間と認定すべきである。
イ 固定残業代の定めの有無について
被控訴人は,控訴人に対し,労働条件通知書により固定残業代の定めを含む労働条件を明示し,これが記載された本件雇用契約書を控訴人に交付しており,本件雇用契約書及びその写し(乙2)の成立の真正は明らかである。また,被控訴人は,控訴人に対し,平成26年4月に基本給を月額26万円に増額した際も,そのうち9万9400円を月間80時間分の時間外勤務に対する割増賃金とすることを説明し,本件年俸通知書を交付している。本件年俸通知書及びその写し(乙5)において従業員の住所及び氏名等を記載する欄が設けられているのは,従業員の同意を得る必要がある減額の場合にも同じ書式を使用するためにすぎず,控訴人に対して交付した本件年俸通知書は昇給を通知するものであったため控訴人の署名を要しなかったものであり,何ら不合理な点はない。
ウ 固定残業代の定めの効力について
(ア)本件雇用契約における固定残業代の定めは,残業の有無にかかわらず一定時間分の残業代を毎月給与として支払うことを約束するものであり,当該時間分の残業を義務付けるものではない。そして,従業員側が,どのような残業代制度のある企業で働くか否かと,企業側がどのような残業代制度を構築するかは,従業員と企業がそれぞれに判断すべき事柄であって,公序良俗違反の問題が生じることはない。
(イ)本件雇用契約における固定残業代の定めが公序良俗に反するか否かについては,80時間という時間数のみに着目して,機械的・形式的に判断されるべきではない。
前記アのとおり,控訴人がその主張するような時間数の時間外労働を行っていた事実は全くないのであって,残業時間が過労死ラインを超えていたなどということはない。また,控訴人の指摘する被控訴人の賃金規程は,言葉の意味を説明したものにすぎず,被控訴人が控訴人に恒常的に月間80時間前後の残業をさせようとしていた事実はない。控訴人は,基本給に月間80時間分相当の固定残業代が含まれていることを認識,認容して入社したものであり,この点につき真意かつ有効な同意がある。
被控訴人は,特に人を雇用しなければならない状況にあったわけでなく,また,控訴人に経験や能力があったわけでもないから,本来であれば,控訴人を採用する必要などなかったものの,勉強をしたいという控訴人を応援するために,善意の気持ちから採用して勉強の機会を与えたものである。そして,最低賃金に所定労働時間を乗じた金額を基本給として控訴人を雇用することもできたところを,東京都内で一人暮らしをする控訴人に配慮して,手取りで20万円程度を受給することができるような給与体系の設計を社会保険労務士に依頼し,月間80時間分相当の固定残業代8万8000円を含む形で,基本給を月額23万円にまで上げて支給することとしたものである。
控訴人は,基本給の中に時間外勤務に対する割増賃金が含まれていることを知っているにもかかわらず,これを意図的に秘して,被控訴人から既に受領ずみの割増賃金を詐取しようとして本件訴訟を提起し,かつ,本件雇用契約書や本件年俸通知書の受領や被控訴人から受けた説明等について虚偽の供述をしている。さらに,控訴人は勤務中に被控訴人の業務と競合する内容の業務を密かに行うなどの特別背任行為に及んでいる。
以上の諸事情に鑑みれば,本件は,公序良俗を持ち出してまで控訴人を勝訴させるべき事案では全くない。
(ウ)万が一,月間80時間分相当の固定残業代の定めが公序良俗に反すると判断される場合であっても,控訴人及び被控訴人の合理的な意思からすると,一定時間の残業に対する時間外賃金を定額の形で支払う旨の合意があったとされるべきであり,上記の定めの全部を無効とすべきではない。そして,労働基準法36条に定める労働時間の延長の上限として広く周知されている月45時間の残業に対する時間外賃金を定額により支払う旨の合意があったと解することが控訴人及び被控訴人の合理的意思に合致するというべきであり,これを超える部分についてのみ無効と判断すべきである。
エ 付加金支払の要否及びその額について
控訴人が被控訴人に入社するに至った経緯,その業務内容等,本件における一切の事情を考慮すれば,被控訴人に対し付加金を命じるのが相当でないことは明らかである。
第3 当裁判所の判断
1 争点⑴(時間外,深夜労働の有無及びその時間数)について
⑴ この点に関する当裁判所の判断は,以下のとおり補正するほかは,原判決「事実及び理由」第3の1に記載のとおりであるから,これを引用する。
ア 10頁5行目から6行目の「これに基づく」を「これに基づいて算出される」と改め,同行目の「「タイムカードベース」」及び同15行目の「「給与明細ベース」」の次に各「欄内」を,同17行目の「深夜労働」の前に「控訴人が」を,同19行目の「支払っていた。」の前に「控訴人に」をそれぞれ加える。
イ 12頁2行目の「1月6日」を「3月16日」と改め,同4行目の「「給与明細ベース」」の次に「欄内」を加える。
⑵ 被控訴人は,控訴人のタイムカード(乙1の1ないし15)の記載に手書きされた部分が多いことや,これが被控訴人事務所のセキュリティ管理上の入退館情報と矛盾すること等を挙げて,同タイムカードに基づき給与明細に記載された時間数をもって控訴人の時間外,深夜労働時間数と認めることは不当である旨主張する。
しかしながら,引用に係る原判決「事実及び理由」第3の1⑵に説示のとおり,控訴人が,被控訴人事務所のみならず,これと所在地を異にするルイーズの事務所における業務も担当していたことや,出先に直行したり直帰したりすることもあったことから,そのような場合には,タイムカードに手書きがされる必然性があり,被控訴人事務所のセキュリティ管理上の入退館情報と齟齬する部分があることも不合理とはいえない。また,被控訴人は,タイムカードの内容につき特に修正を加えることもなく,これに基づいて控訴人の給与明細を作成し,そこに記載された時間外労働時間及び深夜労働時間を基準に,控訴人に対し残業手当や深夜手当を現に支払っていたのであるから,これらの時間数をもって控訴人の実労働時間とすることを承認していたものというべきことも,上記原判決説示のとおりであって,他に前記判断を覆すに足りる証拠があると認めることはできない。
2 争点⑵(固定残業代の定めの有無及びその効力)について
⑴ 認定事実
引用に係る原判決「事実及び理由」第2の1の争いのない事実,証拠(甲1の1ないし15,8,15,16,乙2,3,5,9,控訴人本人,被控訴人代表者本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 被控訴人の就業規則(乙3の1,2枚目)は,賃金の決定,計算,支払方法等につき賃金規程による旨を定めており(55条),さらに被控訴人の賃金規程(乙3の3枚目以下,以下「本件賃金規程」という。)は,従業員の賃金体系が基本給,通勤手当及び割増賃金により構成されること(3条),基本給につき,基本部分(基本月額)と割増部分(時間外月額)に分けられること,基本月額は所定労働時間に対する賃金とすること,時間外月額は所定労働時間を超えて勤務する見込時間に対する賃金とすること,見込時間及び対応する金額は雇用契約書及び労働条件通知書等により個別に通知すること,同時間を超えて勤務した場合は別途割増賃金を支給することを定めている(12条)。
イ 本件雇用契約は,平成26年1月6日に締結されたところ,その際,被控訴人は控訴人に本件雇用契約書を交付し,控訴人がこれに署名押印した上,被控訴人はその写し(乙2)を保管した。本件雇用契約書上,賃金については,基本給は23万円とし,基本給のうち8万8000円は月間80時間の時間外勤務に対する割増賃金とする旨が記載されていた。
なお,被控訴人が,上記の写しであるとして提出する書面(乙2)の控訴人名の署名及び印影は,控訴人の自署及びその所持する印章による印影(甲8)と同一であり,上記書面が写しにすぎないことを踏まえても,上記のとおり認めることが相当である。
ウ 同年4月13日,A社長は,控訴人に対し,同月16日から同年10月16日までの半期年俸額等について基本給を26万円とする旨を記載した本件年俸通知書を交付し,その写し(乙5)を被控訴人において保管した。
本件年俸通知書には,基本給のうち9万9400円は月間80時間分相当の時間外勤務に対する割増賃金とする旨が記載されていた。
なお,本件年俸通知書は,従業員が日付並びに「上記給与額等の改定を同意いたしました。」との記載の下に住所及び氏名を記入する欄が設けられた体裁のものであるところ,同欄(以下「従業員記入欄」という。)の記入はされていないが,この点を重視するのが相当でないことは後記⑵ア(イ)のとおりである。
エ 被控訴人は,控訴人に対し,本件雇用契約以降控訴人の退職に至るまで,平成26年4月支払分までは基本給として月額23万円,同年5月以降支払分については基本給として月額26万円を支払ったほか,控訴人が1か月に80時間を超える時間外労働時間をした場合や深夜労働をした場合には,原判決別紙3「既払い額」欄内の「時間外」及び「深夜」欄各記載のとおり,時間外割増賃金及び深夜割増賃金を支払った。
オ 厚生労働省は,業務上の疾病として取り扱う脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準として,平成22年5月7日付け基発0507第3号による改正後の厚生労働省平成13年12月12日付け基発第1063号により,以下のとおり定めている(甲15,16)。
(ア)恒常的な長期間労働等の負荷が長期間にわたって作用した場合には,「疲労の蓄積」が生じ,これが血管病変等をその自然経過を超えて著しく増悪させ,その結果,脳・心臓疾患を発症させることがあり,このことから,発症との関連性において,業務の過重性を評価するに当たっては,発症前の一定期間の就労実態等を考察し、発症時における疲労の蓄積がどの程度であったかという観点から判断する。
(イ)疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因と考えられる労働時間に着目すると,その時間が長いほど,業務の過重性が増すところであり,具体的には,発症日を起点とした1か月単位の連続した期間をみて,
〔1〕発症前1か月間ないし6か月間にわたって,1か月当たりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合は,業務と発症との関連性が弱いが,おおむね45時間を超えて時間外労働が長くなるほど,業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること
〔2〕発症前1か月におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって,1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は,業務と発症との関連性が強いと評価できることを踏まえて判断すること。
カ 前記1において判断したとおり,控訴人の平成26年3月16日から平成27年5月31日までの間の時間外労働時間数は,原判決別紙2の「給与明細ベース」欄内の「時間外合計」のとおりであり,これをもとにすると,上記14か月半の期間中,時間外労働時間数が80時間を超えた月は5か月あり,うち100時間を超える月が2か月ある。また,平成26年4月16日,同年5月16日,同年6月16日,同年7月16日,同年11月16日,同年12月16日の各時点において,控訴人の時間外労働時間数は,いずれもその直前の1か月に100時間を超えるか,あるいは直前の2か月間ないし6か月間のいずれかの期間にわたって,1か月当たり80時間を超えるものとなっている。
⑵ 判断
ア 固定残業代の定めの有無について
(ア)前記⑴において認定した事実によれば,被控訴人は,控訴人に対し,基本給23万円のうち8万8000円を月間80時間の時間外勤務に対する割増賃金とする旨が記載された本件雇用契約書を交付し,また,平成26年4月16日からの昇給に際しては,基本給26万円のうち9万9400円は月間80時間分相当の時間外勤務に対する割増賃金とする旨が記載された本件年俸通知書を交付しており,実際にも,これらの記載どおりに,控訴人が1か月に80時間を超える時間外労働時間をした場合に時間外割増賃金の支払が行われていたことに鑑みれば,本件雇用契約上,本件雇用契約時以降平成26年4月支払分までに関しては基本給月額23万円のうち8万8000円につき,また,同年5月以降支払分に関しては基本給月額26万円のうち9万9400円につき,いずれも月間80時間分相当の時間外勤務に対する割増賃金とする旨の定め(以下「本件固定残業代の定め」という。)があったものと認めることが相当である。
(イ)これに対し,控訴人は,本件固定残業代の定めの存在を否定し,本件雇用契約書につき,その写し(乙2)をもって成立の真正を認定すべきでない,あるいは,本件年俸通知書につき従業員記入欄の記入がされておらず,被控訴人においていつでも作成できる体裁のものにすぎない旨主張して,本件固定残業代の定めの存在を認めるべきでない旨主張する。
しかしながら,前記⑴ア認定のとおり,本件賃金規程においては,被控訴人の従業員に係る基本給につき,基本月額と時間外月額に分けられ,基本月額は所定労働時間に対する賃金,時間外月額は所定労働時間を超えて勤務する見込時間に対する賃金とすること,見込時間及び対応する金額は雇用契約書及び労働条件通知書等により個別に通知すること,同時間を超えて勤務した場合は別途割増賃金を支給することが定められており,本件雇用契約書や本件年俸通知書における固定残業代に関する記載は,このような定めによく合致するものである。このことに加えて,本件雇用契約書に控訴人が署名押印したものと認められ(被控訴人が本件雇用契約書を偽造したとの疑念を生じさせるに足りる証拠はない),そこには本件固定残業代の定めが明記されていること,そのため控訴人の基本給が増額される場合には再度そのうちのどの部分が時間外労働に対する割増賃金であるかを定める必要が生じるから,本件年俸通知書に本件固定残業代の定めが記載されることは自然であること,被控訴人代表者(A社長)がその尋問及び陳述書(乙9)において,本件年俸通知書の書式を従業員の基本給の減額又は増額のいずれの際にも使用しており,減額の場合にはこれに従業員の承諾を得るため従業員記入欄への記載を求めるが,控訴人については増額の場合であったために同記載を求めなかった旨を述べており,これが特に不合理とはいい難いことからすれば,本件雇用契約上,本件固定残業代の定めがあったことを否定することはできないというべきであって,これを覆すに足りる証拠はない。
イ 固定残業代の定めの効力について
(ア)本件固定残業代の定めは,基本給のうちの一定額を月間80時間分相当の時間外労働に対する割増賃金とすることを内容とするものである。
ところで,前記⑴オにおいて認定したとおり,厚生労働省は,業務上の疾病として取り扱う脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準(平成22年5月7日付け基発0507第3号による改正後の厚生労働省平成13年12月12日付け基発第1063号)として,発症前1か月間ないし6か月間にわたって,1か月当たりおおむね45時間を超えて時間外労働が長くなるほど,業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること,発症前1か月におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって,1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は,業務と発症との関連性が強いと評価できることを示しているところである。このことに鑑みれば,1か月当たり80時間程度の時間外労働が継続することは,脳血管疾患及び虚血性心疾患等の疾病を労働者に発症させる恐れがあるものというべきであり,このような長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定して,基本給のうちの一定額をその対価として定めることは,労働者の健康を損なう危険のあるものであって,大きな問題があるといわざるを得ない。そうすると,実際には,長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせることを予定していたわけではないことを示す特段の事情が認められる場合はさておき,通常は,基本給のうちの一定額を月間80時間分相当の時間外労働に対する割増賃金とすることは,公序良俗に違反するものとして無効とすることが相当である。
これを本件について見るに,前記⑴アにおいて認定したとおり,本件賃金規程は,基本給のうちの一定額(時間外月額)につき,これが所定労働時間を超えて勤務する見込時間に対する賃金である旨を定めているのであり,この規定ぶりからして,本件固定残業代の定めは,控訴人につき少なくとも月間80時間に近い時間外勤務を恒常的に行わせることを予定したものということができる。そればかりでなく,実際にも,前記⑴カにおいて認定したとおり,本件雇用契約に係る14か月半の期間中に,控訴人の時間外労働時間数が80時間を超えた月は5か月,うち100時間を超える月が2か月あり,また,時間外労働時間数が1か月に100時間を超えるか,2か月間ないし6か月間のいずれかの期間にわたって,1か月当たり80時間を超える状況も少なからず生じていたことが認められるのであって,このような現実の勤務状況は,控訴人につき上記のとおり月間80時間に近い長時間労働を恒常的に行わせることが予定されていたことを裏付けるものである。
以上によれば,本件固定残業代の定めは,労働者の健康を損なう危険のあるものであり,公序良俗に違反するものとして無効とすることが相当であり,この結論を左右するに足りる特段の事情は見当たらない。
(イ)これに対し,被控訴人は,控訴人がその主張するような時間数の時間外労働を行っていた事実や,被控訴人が控訴人に恒常的に月間80時間前後の残業をさせようとしていた事実はない旨主張するが,これらの主張を採用し得ないことは前記1及び2⑵イ(ア)に述べたとおりである。また,被控訴人は,控訴人が本件雇用契約締結に当たり本件固定残業代の定めにつき同意していたことや,控訴人の採用の経緯,勤務中の控訴人の行為,訴訟態度等を挙げて縷々主張するが,これらの諸点はいずれも本件固定残業代の定めが公序良俗に違反するものであることを否定する理由になるものではない。
(ウ)さらに,被控訴人は,本件固定残業代の定めが公序良俗に反すると判断される場合であっても,月45時間の残業に対する時間外賃金を定額により支払う旨の合意があったと解することが控訴人及び被控訴人の合理的意思に合致する旨主張する。
しかしながら,実際に,本件雇用契約の締結から控訴人の退職に至るまでの間に,控訴人と被控訴人との間で,月45時間の残業に対する時間外賃金を定額により支払う旨の合意がされたことを基礎付けるような事情は何ら認められないのであって,本件告示において,労働基準法36条1項の協定で定める労働時間の延長につき,1か月につき45時間の限度時間を超えないものとしなければならないこととされていることを踏まえても,被控訴人主張のような合意についてはこれを認定する根拠に欠けるというほかなく,同主張を採用することはできない。
また,本件のような事案で部分的無効を認めると,前記第2の3⑴ウにおいて控訴人が主張するとおり,とりあえずは過大な時間数の固定残業代の定めをした上でそれを上回る場合にのみ残業手当を支払っておくとの取扱いを助長するおそれがあるから,いずれにしても本件固定残業代の定め全体を無効とすることが相当である。
3 争点⑶(時間外,深夜割増賃金算定の基礎となる所定労働時間数,賃金額,時間単価)について
この点に関する当裁判所の判断は,16頁22行目冒頭から17頁9行目末尾までを以下のとおり改めるほかは,原判決「事実及び理由」第3の3に記載のとおりであるから,これを引用する。
「ウ 基礎賃金額
前記2に述べたとおり,本件固定残業代の定めが無効であると解するときは,本件雇用契約における基本給(平成26年4月支払分までにつき月額23万円,同年5月以降の支払分につき月額26万円)の全部が時間外,深夜割増賃金算定の基礎となる賃金額であると解することになる。
エ 時間単価
(ア)平成26年1月から同年4月支払分 1443.45円
23万円÷159.34時間=1443.45円(小数点第3位を四捨五入)
(イ)平成26年5月から同年12月支払分 1631.73円
26万円÷159.34時間=1631.73円(小数点第3位を四捨五入)
(ウ)平成27年1月から同年6月支払分 1625円
26万円÷160時間=1625円」
4 争点⑷(未払時間外,深夜割増賃金の存否及びその額)について
⑴ 前記1に説示の時間外,深夜労働時間数及び前記3に説示の時間単価をもとにして,被控訴人が控訴人に本来支払うべき時間外,深夜割増賃金額を算出すると,原判決別紙3の「本来支払われるべき割増賃金額」欄内の「時間外」及び「深夜」の欄各記載のとおりとなることが認められる。
⑵ また,前記2に述べたとおり,本件固定残業代の定めが無効であると解するときは,被控訴人が控訴人に支払った基本給のうちに割増賃金が含まれると解することはできないことになるから,被控訴人が控訴人に支払済みの時間外,深夜割増賃金額は,原判決別紙3「既払い額」欄内の「時間外」及び「深夜」欄各記載のとおり(前記2⑴エのとおり)となる。
⑶ そして,⑴の算出結果から,⑵の各既払い金を控除した結果は,原判決別紙3の「未払額」欄内の「時間外」及び「深夜」欄各記載のとおりとなり,その合計は同「合計」欄記載のとおりとなる。
⑷ 以上によれば,被控訴人は,控訴人に対し,別表の「内金」欄記載の各金員(その合計は204万7483円)並びにこれらに対する,同「年6%の遅延損害金算出の始期」欄記載の各日から同「年6%の遅延損害金算出の終期」欄記載の各日まで商事法定利率年6パーセントの割合による各遅延損害金及び同「年14.6%の遅延損害金算出の始期」欄記載の各日から各支払済みまで賃確法所定の年14.6パーセントの割合による各遅延損害金の支払義務を負うことなる。
5 争点⑸(付加金支払の要否及びその額)について
被控訴人が控訴人に対し前記4のとおり時間外、深夜割増賃金の支払義務を負うことからすれば,被控訴人に対し一定額の付加金の支払を命じることが相当であるものの,他方,被控訴人は,控訴人が1か月に80時間を超える時間外労働時間をした場合や深夜労働をした場合には,控訴人に対し,時間外割増賃金ないし深夜割増賃金の支払を行っていたことや,雇用契約において,基本給のうちの一定額を一定時間に相当する時間外労働の割増賃金に当たる部分として定める場合に,当該一定時間の上限をどのように解すべきかについて,明確な判断基準が確立していたとはいい難いこと等の事情を勘案すると,前記4において被控訴人が控訴人に対して支払うべきと認定された時間外,深夜割増賃金額元本204万7483円の5割に相当する102万3741円をもって付加金額とするのが相当である。
6 結論
よって,控訴人の本件請求は,未払時間外,深夜割増賃金及びこれに対する遅延損害金請求についてはいずれも理由があり,付加金請求については102万3741円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,その余を棄却すべきところ,これと異なる原判決は失当であって,控訴人の本件控訴の一部は理由があるから原判決を前記のとおり変更し,被控訴人の附帯控訴は理由がないからこれを棄却することとして,主文のとおり判決する。