医療法人

医療法人K会事件(広島高等裁判所平成29年9月6日判決)

看護学校等の修学費用を貸し付けたが,所定の期間(6年間)勤務を果たさずに退職したとして行った修学費用返還請求権が労基法16条に違反して無効であると判断された例

1 医療法人K会事件判例のポイント

1.1 労基法16条は雇用契約とは別個に締結した金銭消費貸借契約にも及ぶ

労働基準法16条にいう「労働契約の不履行について違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約」は,文理上,労働契約そのものに限定されていないし,労働者が人たるに値する生活を営むための必要最低限の基準を定め(同法1条参照),基準に適合した労働条件を確保しようとする労働基準法の趣旨に照らせば,同条が適用される契約を限定する理由はないから,同条は本件貸付にも適用されるものと解される。
したがって,貸付の趣旨や実質,本件貸付規定の内容等本件貸付に係る諸般の事情に照らし,貸付金の返還義務が実質的にY1の退職の自由を不当に制限するものとして,労働契約の不履行に対する損害賠償額の予定であると評価できる場合には,本件貸付は,同法16条に反するものとすべきである。
そして,本件貸付が実質として労働契約の不履行に対する損害賠償額の予定を不可分の要素として含むと認められる場合は,本件貸付は,形式はともあれ,その実質は労働契約の一部を構成するものとなるから,労働基準法13条が適用されるというべきであり,本件貸付が同法16条に反する場合に無効となるのは,同条に反する部分に限られ,かつ,本件貸付は同条に適合する内容に置き換えて補充されることになる。
なお,労働基準法14条は,契約期間中の労働者の退職の自由が認められない有期労働契約について,その契約期間を3年(特定の一部の職種については5年)と定め,労働者の退職の自由を上記期間を超えて制限することを許容しない趣旨であるから,上記の「退職の自由を不当に制限する」か否かの判断においては,事実上の制限となる期間が3年(特定の一部の職種については5年)を超えるか否かを基準として重視すべきである。

1.2 本件貸付けは労基法16条に違反して無効である

以下の事情から,本件貸付②の返還合意部分は,本件貸付規定の返還債務の免除規定(5条)及び返還規定(6条)と相俟って,実質的には,経済的足止め策として,被控訴人Y1の退職の自由を不当に制限する,労働契約の不履行に対する損害賠償の予定であるといわざるを得ず,本件貸付②の返還合意部分は,労働基準法16条に反するものとして同法13条により無効である。

  • 本件貸付規定は,その6条によって,返還の事由が勤務の継続と直接的に関連づけて定められている。
  • 本件病院は慢性的な看護師不足が続いていており,平成18年4月の医療制度改革及び診療報酬の改定により,看護師比率(看護職員における正看護師の割合)40%の維持も含めた将来的な正看護師の確保のために自ら正看護師を養成する必要性が高く,病院関係者には危機感があった。Y1の看護学校進学は,原告の業務命令とまではいえないものの,原告における正看護師確保のためのその養成の一環と位置付けられるものであり,Y1の看護学校通学の成果である正看護師の資格取得はまさに原告の業務に直結するもの
  • 本件貸付規定の返還免除期間についても,看護師について労働基準法14条が労働者の退職の自由を制限する限界(特定の職業を除く。)としている3年間の倍の6年間であり,同条の趣旨からも大きく逸脱した著しい長期間である一方で,6年間に1日も満たない場合は全額返還を要するなど勤続年数に応じた減額措置もなく,Y1が正看護師資格取得後に約4年4か月も勤務した事実は一切考慮されない
  • 本件貸付②の要返還額は,A看護学校在学中のY1の基本給の約10倍の108万円であって,この返還義務の負担が退職の自由を制限する事実上の効果は非常に大きい
    本件貸付規定の返還免除期間は,本件病院の近隣の病院と比較しても倍となっている
  • 山口県の修学資金貸付規定の返還免除条件は,病院を移動しても満たすのであるから,山口県の規定の存在は本件貸付規定の合理性を裏付けるものではない
  • K事務長等の原告の管理職は,Y1が退職届を提出するや,本件貸付の存在を指摘して退職の翻意を促したと認められるのであり,本件貸付は,実際にも,まさにY1の退職の翻意を促すために利用されていた
  • K事務長は本件貸付②だけではなく本件貸付①も看護学校卒業後10年間の勤務をしなければ免除にならないと述べるなど,本件貸付規定は,労働者にとって更に過酷な解釈を使用者が示すことによってより労働者の退職の意思を制約する余地を有する

2医療法人K会事件の関連情報

2.1判決情報

  • 裁判官:(第1審)梅本聡子,(第2審)生野考司,佐々木亘,宮本博文
  • 掲載誌:労経速2342号3頁

2.2 関連裁判例

【労基法16条違反ではないとする例】

  • 長谷工コーポレーション事件(東京地裁平9.5.26判決 労働判例717号14頁)
  • 野村證券(留学費用返還請求)事件(東京地裁平14.4.16判決 労働判例827号40頁)
  • 東亜交通事件(大阪高裁平22.4.22 労働判例1008号15頁)

【労基法16条違反であるとする例】

  • 富士重工業(研修費用返還請求)事件(東京地裁平10.3.17判決 労働判例734号15頁)
  • 新日本証券事件(東京地裁平10.9.25判決 労働判例746号7頁)
  • 和幸会(看護学校修学資金貸与)事件(大阪地裁平14.11.1判決 労働判例840号32頁)

2.3 参考記事

3医療法人K会事件の判例の具体的内容

3.1 結論

請求棄却

3.2 事案の概要

(1) 当事者等

ア 原告は,医療法人であり,肩書地において,A病院(以下「本件病院」という。)を開設運営している。本件病院は病床数180床の精神科を中心とする病院である。
Y1が原告に採用された当時の原告の事務長はJ(以下「J元事務長」という。)であり,J元事務長は平成21年末に原告を退職した。Y1が原告を退職した当時から現在までの原告の事務長はK(以下「K事務長」という。)である。
イ Y1は,平成17年4月1日,原告に雇用され,同日から平成19年3月31日までは看護補助として,同年4月1日から平成22年3月31日までは准看護師として,同年4月1日からは正看護師としてそれぞれ本件病院において勤務し,平成26年8月20日,退職した。
Y1は,原告に雇用される前の平成17年3月にL准看護学院の入学試験に合格し,同年4月,原告に看護補助として雇用されるとともに同学院に入学し,原告で勤務しながら同学院に通学していた。
Y1は,平成18年11月,推薦枠で山口県立L看護学校第二看護学科に合格し,平成19年2月,准看護師試験に合格し,同年3月,L准看護学院を卒業した。Y1は,同年4月から,原告において准看護師として勤務しながらL看護学校に通学し,在学中に看護師試験に合格し,平成22年3月,同学校を卒業した。
ウ Y2は,Y1の父である。

(2) 原告の修学資金貸付規定(甲1)

原告は,平成13年4月1日以降,原告の医療施設において業務に従事しようとする者を対象として無利息で修学資金を貸し付ける旨の修学資金貸付規定(甲1,以下「本件貸付規定」という。)を設けており,本件貸付規定には以下の条項がある(甲1,15,16)。
第2条(貸付け)
修学資金は,貸付けの決定から卒業する日の属する月まで貸付けるものとする。
第5条(返還の債務の免除)
修学資金貸付けを受けた者が,その課程を卒業し,引続き法人の医療施設において勤務する期間が通算して理学療法士・作業療法士・診療放射線技師・臨床検査技師・看護婦6年以上,准看護婦・介護福祉士4年以上であるときは,貸付け金の全額について免除する。
第6条(返還)
修学資金は,次の各号の一に該当するときは,当該各号の事由が生じた時点において,貸付修学資金の全額を返還しなければならない。
但し,病気その他やむを得ない理由により,法人の承諾を得て中途退学または退職する時は,法人は貸付修学資金の返還を減免または猶予することがある。
1.修業年限を中途退学するとき。
2.免許を取得した後,その業務に従事しなかった時。又,勤務すべき期間内に退職する時。
第7条(延滞利息)
法人は,修学資金の貸付けを受けた者が前条の定めるところにより,正当な理由がなくて修学資金の返還を遅延したときは,その返還すべき額につき年6%の割合による延滞利息を徴収することが出来る。
2 修学資金の返還は,月賦または半年賦の均等払いの方法によるものとする。ただし,その返還期限を繰り上げて返還することを妨げない。

(3) 被告らの修学資金貸付願(甲2,6)

被告らは,いずれもY1を申請者,Y2を連帯保証人とする,金額毎月5万4770円,期間を平成17年4月1日から平成19年3月31日までとする別紙1の修学資金貸付願(甲6,以下「本件貸付願①」という。),及び,金額毎月3万円,期間を同年4月1日から平成22年3月31日までとする別紙2の修学資金貸付願(甲2,以下「本件貸付願②」という。)を作成し,原告に提出した(いずれも成立の真正には争いがないが,本件貸付願①の作成時期及び両貸付願の趣旨には争いがある。)。なお,本件貸付願①の作成年月日欄は空欄であり,同①も同②も「L准看護学院在学中の学費として」との記載がある。

(4) 本件訴訟の経過(顕著な事実)

原告は,本件の訴状において,Y1が本件貸付規定6条2の「勤務すべき期間内に退職する時」に該当するとして,本件貸付規定に基づき,平成19年4月1日から平成22年3月31日までの貸付金合計108万円及び訴状送達の日の翌日からの遅延損害金の支払を請求していたが,被告らが,金銭の返還合意及び本件貸付の無効を主張したのを受けて,平成28年4月4日付け訴えの変更申立書をもって,本件貸付を期限の定めのないものと構成して(なお,本件貸付が本件貸付規定に基づく貸付であるという原告の主張に変更はない(平成28年5月13日付原告準備書面(6)),前記第1のとおりの請求に請求の拡張をした(ただし,附帯請求については請求を減縮。)。

3.3 争点

本件の争点は,
(1) 本件貸付の契約が成立したか(金銭の交付の有無及び返還合意の成否),
(2) 本件貸付①につき免除がなされたか,
(3) 本件貸付は労働基準法14条及び同法16条違反により無効か並びに原告の請求は信義則に反して許されないか,である。

3.4 裁判所の判断

1 前記前提事実

証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1) 本件貸付規定の策定及び利用状況等

本件貸付規定は,J元事務長が平成13年4月1日に策定し,原告は,Y1の採用までに,6名の従業員に対して学費等を支給してきた。Y1の採用以前に,看護学校ないし准看護学校に通学しながら原告に勤務する職員で,原告から学費等の交付を受けなかった職員はいなかった。また,Y1の採用以前に,資格取得後に原告で全く勤務しなかったために交付を受けた学費等を返還した職員はいるが,Y1のように,正看護師資格取得してから一定期間勤務後,本件貸付規定の返済免除期間内に退職した職員はいなかった。
原告から学費等の交付を受けながら資格取得後直ちに辞めた場合,交付された学費等を返還しなければならない制度があることは本件病院の職員内でも知られていたが,返還免除期間などその具体的な内容は必ずしも知られていなかった。
なお,本件貸付規定の内容は,原告の外部の者に広く公開はしていない。

(2) Y1の採用経緯及び面接等

Y1は,従前,看護助手として他の病院で勤務していたが,平成17年3月にL准看護学院に合格したことに伴い,同病院では勤務しながら通学するのは困難であったために退職することとした。その際,同病院の事務長から紹介されて原告の採用面接を受けることした。
Y1は,同月11日,J元事務長の採用面接を受け,その際,同人から,給与や勤務形態等の勤務条件のほか,学費や生活費3万円の交付等について説明を受けるとともに,看護学校に進学して正看護師資格を取得するように奨励された。
Y1は,同年4月1日付けで,原告に雇用されることになり,併せて,後記(3)のとおり,学費等の交付を受けることになった。
また,Mも,Y1と同様に,L准看護学院に合格した上でY1と同日にJ元事務長の面接を受けて原告に雇用されることになり,学費等の交付を受けることになった。平成17年4月に原告に雇用されてL准看護学院の学費等を交付されて同学院に通学することになった従業員は,Y1とMの2名であった。
上記学費等の交付に係る事務手続は,原告のG係長が担当していた。

(3) Y1のL准看護学院在学中の金員交付(平成17年4月から平成19年3月まで)

ア 原告は,平成17年4月4日及び同月8日,別紙3「貸付一覧表」の番号1ないし4のとおり,Y1に対し,同人が支払ったL准看護学院の入学金,制服代,教科書代及び傷害保険料について,同表の「貸付金額」欄記載のとおりの金員を交付した。原告は,これらの金員を福利厚生費として会計処理をしていた。

イ 原告は,Y1に対し,本件貸付規定に基づき,同人のL准看護学院在学中に,同学院に納付すべき授業料等の学費として月1万8500円,通学の交通費として月6270円,生活費として月3万円の合計月5万4770円を交付することとし,同日から平成19年3月1日まで月に1回の割合で,同表の番号5ないし28のとおり,同表の「貸付年月日」欄記載の各年月日に,「貸付金額」欄記載の各5万4770円を交付した。ただし,実際の交付の際には,上記の学費1万8500円と,交通費及び生活費の合計3万6270円は,別に払い渡され,前者は准看護学生の代表の者がまとめて受け取って同学院に納付するため必ずしもY1が直接受領するわけではなかった。原告は,これらの金員を短期貸付金として会計処理をしていた。
生活費としての3万円について,原告は,在学中の給与が減少する分の補填目的と位置づけており,学費等の交付を受けて通学しながら勤務する職員全員に交付するわけではなく,共働きの配偶者の有無等の生活状況に応じて交付するかを決定していた。

ウ Y1のL准看護学院の学費は,上記のとおり原告が交付したため,Y1は出捐していない。

(4) Y1のL看護学校在学中の金員交付(平成19年4月から平成22年3月まで)

ア 被告らは,平成19年4月,本件貸付願②を作成して原告に提出した。
イ 原告は,Y1に対し,本件貸付規定に基づき,別紙4「貸付一覧表」のとおり,同人のL看護学校在学中の平成19年4月26日から平成22年3月27日まで月に1回の割合で,同表の「貸付年月日」欄記載の各年月日に,「貸付金額」欄記載の各3万円を交付した。
この3万円についても,上記(3)イのとおり,生活費として交付するものであった。
ウ Y1は,L看護学校入学時の入学金等の必要費約20万円や月額2000円の授業料等の学費については,全て自ら負担して支払っており,原告からは交付を受けていない。

(5) Y1の勤務条件等

ア 採用時の労働条件
Y1の平成17年4月1日の採用時の労働条件通知書(乙1)記載の労働条件は以下のとおりであった。同通知書には,修学資金や通学に関する記載はない。
(ア) 契約期間 期間の定めなし
(イ) 勤務時間 変形労働時間制(7時30分から16時15分,8時30分から17時15分,9時45分から18時30分,16時30分から8時30分),休憩時間60分
(ウ) 賃金   基本給9万5700円のほか通勤手当等の諸手当

イ L准看護学院通学中(平成17年4月から平成19年3月まで)の給与及び基本的な勤務形態等
L准看護学院では,主として月曜から金曜までの午後から講義(ただし,午前中から実習があることもある。)であったため,Y1は,月曜から金曜までは午前中勤務して午後に通学し,土曜は日勤か夜勤(翌日曜の朝まで)で勤務していた。平均すると月約100時間程度の勤務時間であった(ただし,月により大きく変動する。)。
Y1の看護助手としての平成19年3月時点の基本給は10万0700円であった。

ウ L看護学校通学中(平成19年4月から平成22年3月まで)の給与及び基本的な勤務形態等
L看護学校では実習が多く,Y1は学校が休みの日に日勤か夜勤で勤務していた。平均すると月約70時間程度の勤務時間であった(ただし,月により大きく変動する。)。
Y1の准看護師としての平成19年5月時点の基本給は10万8700円であった。

(6) Mの退職等

平成19年2月ころ,Mが,准看護師の資格試験を受けた後,原告を退職する意思を示した。これを受けて原告は,Mに対し,同人に学費及び生活費名目で交付した金員全額の返還を求めたところ,Mは,返還について説明を受けていないとして,返還義務を争った。その後,原告とMは,協議の結果,交付された金額全額ではなく一部を返還することで決着した。
なお,Mは,平成17年付(月日は空欄)で修学資金貸付願を作成し,署名押印している。

(7) 平成18年当時の本件病院の正看護師確保の必要性

原告においては,本件病院が精神科の病院であったこともあり,新卒や中途採用の看護師の採用希望者が少なく,慢性的な看護師不足が続いていた。さらに,平成18年4月の医療制度改革及び診療報酬の改定により,看護師比率(看護職員における正看護師の割合)40%の維持も含めた将来的な正看護師の確保のために自ら正看護師を養成する必要性が高く,病院関係者には危機感があった。そのため,原告においては,L准看護学院に通う職員に対しては,正看護師資格を取るべくL看護学校への進学を勧めており,Y1に対しても,当時の院長や看護部長であるN等の管理職がL看護学校への進学を勧めていた。

(8) Y1の退職の経緯等

ア Y1は,正看護師の資格取得後も引き続き本件病院において勤務していた。しかし,平成26年3月に本件病院の第3病棟に配置転換された後は,同病棟の雰囲気等に問題意識を感じ,退職を考えるようになった。同年5月ころ,Y1は,原告から通学させてもらったことで退職に当たって契約上の問題がないかなどが気になり,K事務長に尋ねたところ,同人は,自分ではわからない,G係長に聞くようにと述べた。そこで,Y1は,G係長に同じことを尋ねたが,本件貸付による貸付金の返還が必要となる旨の説明はなされなかった。そこで,退職に当たって特段の問題はないと認識したY1は退職を決意し,同年7月10日,当時の看護部長であったH看護部長に退職届を提出した。すると,同人は退職届を提出したことに怒るなどした。Y1は,同月15日,H看護部長からK事務長が修学資金のことを話しているなどと聞いたことから,再度K事務長に契約について尋ねると,同人は,Y1に本件貸付規定と修学資金貸付金合計238万9480円と記載した紙等を見せたため,Y1はこれらの写しを受け取った。Y1はこのとき初めて本件貸付規定の内容を具体的に把握した。Y1がH看護部長に上記貸付金のことを伝えると,H看護部長は,退職を翻意するように述べた。Y1は,同日,再びK事務長を訪ねたところ,同人は,准看護学校と看護学校の両方の修学金を受けているから,正看護師の資格を取ってから合計10年,すなわちあと6年勤務しないと免除にはならない,Y1さんっていう名前に傷が付く,長門市じゃ働けんことになる,裁判で決着がつくまではあなたは病院を辞めることができないなどと述べた。このとき,Y1は,准看護師になって4年経っているから,本件貸付①は本件貸付規定からも免除になるのではないかと反論したが,正看護師の資格を取ってから10年間勤務しなければ本件貸付①も免除にはならないというK事務長の意見は変わらなかった。
その後もY1の退職の決意は変わらず,同人は,原告を同年8月20日付けで退職することとした。

イ 原告は,Y1に対し,本件貸付について,同月4日付け本件通知書を送付した。
本件通知書には,①本件貸付規定に基づく貸付として,平成17年の貸付願に基づく貸付の月額5万4770円の2年間合計130万9480円,平成19年の貸付願に基づく月額3万円の3年間合計108万円がある,②平成17年の貸付願に基づく貸付金は,本件貸付規定5条により,貸付の全額について返還の義務を免除する,③平成19年の貸付願に基づく貸付金は,本件貸付規定5条の所定の看護婦6年以上の免除条件を充足していないとして,貸付金108万円の返還義務があり,原告は,被告らに対して,返還を求める,④その返還方法についての提案(月賦払いか半年賦払いかなど)が記載されている。

ウ 原告では,当初,前記アでK事務長が述べたとおり,本件貸付規定5条及び6条の解釈として,看護学校卒業後10年間勤務しなければ本件貸付①も同②も免除条件を充足しないとの見解であったが,原告代理人弁護士への相談の結果,本件通知書のとおりの見解に変更した。

(9) 山口県等の看護学生等に係る修学資金貸付制度

ア 山口県では,修学資金として,准看護学生に月1万5000円から2万1000円,看護学生に月3万2000円から3万6000円を,卒業まで無利子で貸し付ける制度がある。
山口県の修学資金貸付制度にも免除条件があり,平成12年当時は,卒業後1年以内に免許を取得し,山口県内の200床未満の診療施設等で引き続き3年間以上看護業務に従事した場合には貸付金の返還が全額免除されるが,要件を満たさない場合には全額返還することとされていたが,平成17年4月当時には,全額免除の条件は,卒業後免許を取得し,直ちに山口県内の200床未満の診療施設等で5年間継続して看護業務に従事した場合とされ,平成28年時点でも返還免除期間の条件は同じであった。
もっとも,山口県の規定では,継続して就業していれば,就業先を変更しても,免除条件を満たすとされている。

イ 原告の近隣の同規模の病院には,修学資金貸付規定を設けつつ,返還免除期間を,修学年数と同じ就業年数とする病院が複数存在する。

2 争点(1)(本件貸付の契約の成立)について

(1) 金員の交付について

前記1(3)及び(4)のとおり,証拠及び弁論の全趣旨によれば,原告が,Y1に対し,別紙3「貸付一覧表1」及び別紙4「貸付一覧表2」の各「貸付年月日」欄記載の各年月日に,各「貸付金額」欄記載の各金員を交付した事実が認められ,上記認定に反する証拠はない。

(2) 返還合意について

ア 平成17年4月から平成19年3月までの毎月5万4770円(別紙3「貸付一覧表1」のうち番号5ないし28の金員)及び同年4月から平成22年3月までの毎月3万円(別紙4「貸付一覧表2」の金員)について
(ア) 被告らは,その文言上貸金の申請であることが明らかな上連帯保証人の記載もある本件貸付願①及び同②に署名押印していること(前提事実)からすると,本件貸付願①及び同②に記載された平成17年4月から平成19年3月まで毎月5万4770円及び同年4月から平成22年3月まで毎月3万円の各金員が,原告からの貸金,すなわち,原告に返還を要する金員であると認識していたと推認される。
(イ) 以上に対し,被告らは,返還合意の存在を否認し,Y1本人も,これに沿って,学費や生活費の交付について,J元事務長から返還を要するものであるとの説明を受けておらず,そのような認識はなかった旨供述をする。
しかし,前記のとおり,本件貸付願①及び同②の文言は少なくとも貸金の申請であることは明らかであり,連帯保証人も要するものであることからすると,これらに署名押印しながら,返還義務がないと認識したというのは不自然である。また,Y1自身も,その本人尋問において,Mの退職について,学費等を出してもらいながら資格取得後すぐに退職するのは大丈夫なのかという思いがあったとも述べているし,自身の退職前にも,学費等の交付との関係で問題がないかなどとK事務長等に尋ねるなどしており(前記1(8)ア),学費等が原告からただ贈与されるものという認識とは異なる前提の行動をしていること,本件病院内においては,年数はともかくとして,一定期間就労しなければ学費等の返還を要するということは職員の間でも認識されていたと認められることに照らし,Y1の上記供述は前記推認を覆すものではない。
なお,本件貸付願①の作成時期について,Y1は本件貸付願①を作成して提出したのは平成19年2月ころのMの退職騒動があったころであり,提出時点では「54,770」円の手書き文字もなかったと供述し,確かに,本件貸付願①の作成年月日は空欄であり,原告主張の平成17年4月に作成されたことを認めるに足りる的確な証拠はない。しかし,本件貸付願①の作成時期がY1の供述どおりであるとしても,Y1は,自己と同様に学費等の交付を受けていたMがその関係で退職について原告と紛争になっていることを認識しながら貸金の申請であることが明らかな本件貸付願①に違和感なく署名押印したということになり,そのこと自体,むしろ,Y1において,毎月給与とは別に交付される金員が貸金であることを認識していたことを示すというべきであり,また,前記のとおり,Y1が平成17年4月以降毎月5万4770円の交付を受けていた事実は認められることからすると,本件貸付願①の作成時期等についての被告のY1の上記供述は前記推認を左右しないというべきである。
(ウ) したがって,被告らは,一応は返還義務があるとの認識の上で本件貸付願①及び同②に署名押印したというべきであり,前記の金員については,Y1は原告との間で返還を合意し,Y2はこれを連帯保証したものと認められる(ただし,Y1の具体的な認識は後記において検討するとおりである。)。

イ 別紙3「貸付一覧表1」の番号1ないし4の金員について
原告は,これらの金員も修学資金に含まれるとして返還対象になると主張し,証人J元事務長もこれに沿う供述をする。
しかし,本件貸付願①にもこれらの金員の記載はないこと,原告の日計表では,上記アの金員とは異なり,これらの支出は福利厚生費として会計処理しており,本件通知書にも記載がないなど,原告においても,本件訴訟で訴えの変更により請求の対象とするまで貸金として取り扱っていなかったと認められることからすると,証人J元事務長の証言その他本件全証拠によっても,これらの金員について,原告と被告らとの間で返還合意があったとは認められない。

3 争点(2)(本件貸付①の免除)について

(1) 前記1(8)イのとおり,原告は,Y1に対し,本件通知書をもって,平成17年の貸付願に基づく貸付金は,本件貸付規定5条により全額免除する旨通知しており,これによって,原告は,Y1に対し,本件貸付①に係る貸金債務については,全額免除したと認められる。

(2) 以上に対し,原告は,被告らが貸付の事実,返還合意及び免除条件を含む本件貸付規定の効力を争ったことによって,免除の前提事実が失われ,原告の免除の意思表示に錯誤があったと主張する。
しかし,控訴人の主張する免除の「前提」とは,その法的な性質が必ずしも明らかではないが,免除の動機を主張するものと解すれば,それが表示されていたのでない限り,免除の意思表示の内容とならず,その錯誤が要素の錯誤となる余地はない。
これを本件についてみるに,証拠(甲3)によれば,免除の意思表示の表示内容は,「貴殿は准看護師の課程を卒業された後,当法人の医療施設において通算して4年以上準看護師として勤務されたと認められますので,修学資金貸付規定第5条により,貸付の全額について返還を免除いたします。」であり,本件貸付に本件貸付規定5条の適用があり,被控訴人Y1が本件貸付①につき同条所定の免除条件を満たしているとの控訴人の認識は表示されていたと認められる反面で,被控訴人らが本件貸付及び返還合意の成否や本件貸付規定の効力を争っていないことが免除の「前提」であること等は表示されていたとは認められないから,免除に要素の錯誤が成立する余地はない。
なお,控訴人の主張する免除の「前提」が,本件貸付規定の効力を争わないことが免除の条件,あるいは要件である,あるいは本件貸付規定の効力を争うことは免除の解除条件であると主張する趣旨であるとしても,免除にこのような要件や条件が付されていたことをうかがわせる証拠は何らない。
そして,本件貸付規定5条が本件貸付の契約内容であることは,本件貸付願①及び②に「医療法人X1修学資金貸付金規定により」とあることから明らかであるし,本件貸付規定5条を合理的に解釈すれば,被控訴人Y1は,A准看護学院を卒業後平成19年4月1日から准看護師ないし正看護師として4年以上勤務したことによって本件貸付①の免除条件を満たしていると認められる。
控訴人の上記主張は採用することができない。

4 争点(3)(本件貸付の有効性及び信義則違反)について

(1) 労働基準法16条に違反する場合とは

被告らは,本件貸付は,労働基準法14条及び同法16条に違反するから無効であると主張するので,まず,労働基準法16条違反について検討するに,労働基準法16条にいう「労働契約の不履行について違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約」は,文理上,労働契約そのものに限定されていないし,労働者が人たるに値する生活を営むための必要最低限の基準を定め(同法1条参照),基準に適合した労働条件を確保しようとする労働基準法の趣旨に照らせば,同条が適用される契約を限定する理由はないから,同条は本件貸付にも適用されるものと解される。
したがって,貸付の趣旨や実質,本件貸付規定の内容等本件貸付に係る諸般の事情に照らし,貸付金の返還義務が実質的に被控訴人Y1の退職の自由を不当に制限するものとして,労働契約の不履行に対する損害賠償額の予定であると評価できる場合には,本件貸付は,同法16条に反するものとすべきである。
そして,本件貸付が実質として労働契約の不履行に対する損害賠償額の予定を不可分の要素として含むと認められる場合は,本件貸付は,形式はともあれ,その実質は労働契約の一部を構成するものとなるから,労働基準法13条が適用されるというべきであり,本件貸付が同法16条に反する場合に無効となるのは,同条に反する部分に限られ,かつ,本件貸付は同条に適合する内容に置き換えて補充されることになる。
なお,労働基準法14条は,契約期間中の労働者の退職の自由が認められない有期労働契約について,その契約期間を3年(特定の一部の職種については5年)と定め,労働者の退職の自由を上記期間を超えて制限することを許容しない趣旨であるから,上記の「退職の自由を不当に制限する」か否かの判断においては,事実上の制限となる期間が3年(特定の一部の職種については5年)を超えるか否かを基準として重視すべきである。
また,引用する原判決「事実及び理由」第3,3に記載のとおり,本件貸付①については免除が成立しているから,以下,基本的に本件貸付②の返還合意や免除条件の有効性について検討する。

(2) 本件貸付②に至る経緯及び本件貸付②の趣旨

Y1は,本件貸付①に引き続き,看護学校への進学に伴い,本件貸付②を受けることになったところ,正看護師資格は一般的な資格であり,その資格取得は,原告での勤務と関係なく,Y1自身の技能として有益である。もっとも,前記1(7)に照らせば,Y1の看護学校進学は,原告の業務命令とまではいえないものの,原告における正看護師確保のためのその養成の一環と位置付けられるものであり,Y1の看護学校通学の成果である正看護師の資格取得はまさに原告の業務に直結するものである。
そして,前記1(3)及び(4)のとおり,本件貸付②は,本件貸付①のうちの月3万円と同様に,学費そのものではなく,生活費としての交付であり,在学中の給与の減少分を補填する目的で,共働きの配偶者の有無等生活状況に応じて交付されるものであったこと,上記のY1の進学の経緯からすると,本件貸付②の実質は,むしろ,賃金の補充として位置付けられるものであったというべきである。

(3) Y1の本件貸付についての認識等

ア 前記1(8)アで認定したとおり,本件貸付規定の具体的な内容について,Y1が認識したのは,Y1が退職届を提出した後のことであると認められる。
イ これに対し,原告は,Y1は,原告の採用面接前から原告の貸付制度を知っていたし,採用面接時に本件貸付規定を示しながら説明したと主張し,証人J元事務長もこれに沿って,そのように説明するとともに本件貸付規定の写しも交付したと証言する。
しかし,本件貸付規定は外部に広く公開されてはいないこと,本件貸付願①及び同②には,返還免除条件のみならず,貸付金返還時期や返還方法等の記載もなく原告が本件貸付規定をY1に説明の上交付したことを示す客観的証拠もないこと,証人J元事務長がY1の採用面接に立ち会ったと述べる原告の元看護部長の証人Nにおいても,本件貸付規定の説明は聞いていないどころか,本件貸付規定の具体的な内容は把握していないと証言していること(同人の証言が信用できない具体的事情は窺われない。),J元事務長の後任であるK事務長は,修学資金の貸付に際して,本件貸付規定の写しは交付しておらず(証人K事務長2頁),原告において必ずしも交付する運用ではなかったこと,前記1(8)アのとおり,Y1が退職前に退職に当たり契約上の問題はないかを尋ねた際に,本件貸付規定の返還免除期間の一般的な説明自体は特段困難と思われないのに,K事務長ですらわからないなどと答えた上,このように退職に当たって問題がないかを気にかけるY1に対し,Y1が現に退職届を提出するまで,原告の担当者において,Y1に本件貸付やその免除条件について指摘することはなかったなど,原告の貸付担当者においても本件貸付規定の内容が把握されていなかったと窺われること(なお,証人K事務長は同人が貸付を担当する際に本件貸付規定の内容を説明していたと証言するが,それならばなお一層,Y1からの質問に直ちに回答できないというのは疑問であり,同人の証言は判断に影響しない。また,同人の陳述書には,担当のG係長も返還免除期間が残っているかについて,Y1にわからないとしか伝えていない旨の記載があるが,仮にG係長においてもそのように回答したのだとすると,まさに,貸付担当者ですら本件貸付規定の内容を認識していなかったというべきである。)に照らすと,証人J元事務長の上記証言は採用できず,その他,前記認定を覆すに足りる証拠はない。
ウ 以上からすると,本件貸付に係る金員の返還合意の成立自体は,前記2のとおり,これを肯定することができるものの,本件貸付規定の具体的な内容は,本件貸付②の実行時点でもY1において認識しておらず,本件貸付の返還及び免除条件については,Y1にとって明確ではなかったというべきである。

(4) 本件貸付規定の合理性等

ア 本件貸付規定は,その6条によって,返還の事由が勤務の継続と直接的に関連づけて定められている。そして,本件貸付規定の返還免除期間についても,看護師について労働基準法14条が労働者の退職の自由を制限する限界(特定の職業を除く。)としている3年間の倍の6年間であり,同条の趣旨からも大きく逸脱した著しい長期間である一方で,6年間に1日も満たない場合は全額返還を要するなど勤続年数に応じた減額措置もなく,Y1が正看護師資格取得後に約4年4か月も勤務した事実は一切考慮されない上,本件貸付②の要返還額は,A看護学校在学中の被控訴人Y1の基本給の約10倍の108万円であって,この返還義務の負担が退職の自由を制限する事実上の効果は非常に大きい。しかも,本件貸付規定の返還免除期間は,本件病院の近隣の病院と比較しても倍となっており,このことからも,本件貸付規定により,労働者の退職の自由について課す制限は,目的達成の手段として均衡を著しく欠くものであって,合理性があるとは到底認められない

イ これに対し,原告は,貸付期間中の雇用条件や雇用実態等の事情を考慮して,返還免除期間を定めており,6年間の返還免除期間は合理的であると主張するところ,前記1(5)とおり,L看護学校通学中のY1の基本給が10万円程度にすぎないことに照らしても,合理性を有するという原告の主張の根拠は不明といわざるを得ない。また,原告は,山口県の修学資金貸付制度の准看護学生に対する返還免除期間が5年であり,本件貸付規定よりも長いことを指摘するが,前記1(9)のとおり,山口県の修学資金貸付規定の返還免除条件は,病院を移動しても満たすのであるから,山口県の規定の存在は本件貸付規定の合理性を裏付けるものではない。

(5) 退職の制限等

ア 前記1(8)アのとおり,K事務長等の原告の管理職は,Y1が退職届を提出するや,本件貸付の存在を指摘して退職の翻意を促したと認められるのであり,本件貸付は,実際にも,まさにY1の退職の翻意を促すために利用されている。しかも,K事務長は本件貸付②だけではなく本件貸付①も看護学校卒業後10年間の勤務をしなければ免除にならないと述べるなど,本件貸付規定は,前記3(2)の解釈とは異なる,労働者にとって更に過酷な解釈を使用者が示すことによってより労働者の退職の意思を制約する余地を有するものともいえる。このようなY1の退職の際の原告の対応等からしても,本件貸付は,資格取得後に原告での一定期間の勤務を約束させるという経済的足止め策としての実質を有するものといわざるを得ない。

イ この点について,原告は,本件貸付規定をもって,就労を強制するものではなく,現に就労を強制した事実はないと主張するが,Y1本人の供述によれば,前記1(8)アの事実が認められるのであり,他方,証人K事務長は,Y1の退職届提出時の会話内容について異なる内容を供述しているが,同人の証言を踏まえても,前記認定は左右されず,原告の主張は採用できない。

(6) 小括

以上で検討したところに照らせば,本件貸付②の返還合意部分は,本件貸付規定の返還債務の免除規定(5条)及び返還規定(6条)と相俟って,実質的には,経済的足止め策として,被控訴人Y1の退職の自由を不当に制限する,労働契約の不履行に対する損害賠償の予定であるといわざるを得ず,本件貸付②の返還合意部分は,労働基準法16条に反するものとして同法13条により無効であり,本件貸付②は,返還合意なき給付金契約になり(したがって,給付金は不当利得とはならない。),本件貸付②に係る貸金債務は返還合意を欠くため成立せず,本件貸付②に係る被控訴人Y2の連帯保証債務も附従性により成立していないことになる。
したがって,控訴人の請求の信義則違反の成否について判断するまでもなく,控訴人の請求は理由がない。

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